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癒しの医療 チベット医学―考え方と治し方 /タムディン・シザー ブラッドリー著

☆☆☆☆

チベット医学を概観する

著者は英国在住のチベット人女医タムディン・シザー・ブラッドリー氏(1964ー)です。
本書はチベット医学を初学者向けに解説したものです。

ブラッドリー女史は、チベット暴動後に両親が移り住んだ南インドで生を受けました。
82年からダラムサラチベット医学校で学び、ダライ・ラマの侍医クン・グルメイ・ニャロンシャー師の元で研鑽しました。
90年からは海外での活動を始め、英国人の伴侶と縁を持ったことを契機に英国に移住します。
そして同国で初めてのチベット医師として診療を開始し、現在も臨床とチベット医学の啓蒙活動に活躍しています。
本書はその一環として執筆されたもので、初学者向けにチベット医学の概要をわかりやすく解説されていました。

チベット医学はモンゴル、ブータンやインドなどに及ぶヒマラヤ山脈沿いの人々の間で伝承された民族医療です。
医学校メンチーカンを卒業したアムチと呼ばれるチベット医師が、村々を放浪しながらマンツーマンの医療を施してきました。
彼らは「四部医典」を聖典に据え、次のような独自の人体観で診断・治療にあたります。
人は真理を知らない「無明」ゆえに、本来持っていた精妙なバランスを欠いています。
無明とは、貪欲に求め続ける「貪」・妬みと怒りに飲まれる「瞋(じん)」、怠慢に溺れる「痴」に象徴されます。
その結果、人体を巡るルン、ティーパ、ペーケンという循環物質に不調和が生じて、病気となります。
診断は望診(舌診と尿診)、問診、触診(脈診)で行います。
不調和の調整は、生薬、鍼灸などの物療、食養生、精神の養生などを通じてなされます。
特に精神の養生では、仏教哲学を背景に積極的に推奨していました。
鍼灸では背部のツボに行う灸療法、頭頂部に金鍼を触れて行う鍼治療などが挙げられていました。
所々で実際の臨床の様子が引用されていて、チベット医学についてイメージしやすい構成となっていました。

本書の白眉はあとがきに添えられた「監訳者解説」にあり、監訳者自身の来し方とチベット医学への私的考察がまとめられていました。
監訳の井村宏次氏は鍼灸師で、ライフワークとして東洋医学を長年追い続けてきました。
しかし「チベット医学」は当時、資料も少なく、苦心していました。
2000年代に入るとようやく本書の原典「Principles of Tibetan Medicine」が出版され、チベット人でありながら英国に移住したブラッドリー女史の鮮やかな解説に引き込まれました。
そして出来上がったのが本書です。
東洋医学の専門家でチベット医学を追い続けてきたゆえにその分析は鋭く、実際の臨床で用いた応用例も披露されていて興味深いものでした。
チベット医学をわかりやすく伝えようという原作者と翻訳者の思いが感じられるような好著だと思います。